17歳の頃。宮崎から脱出することしか考えていなかった。
インターネットなど夢物語のはるか昔。テレビの民放が2局しかなく、FM局もNHKのみで、
本屋や映画館も数えるほど。デザイナーを志し、新しいデザインや音楽、最新のカルチャー情報を
渇望していた少年にとって、宮崎はあまりにも荒涼とした田舎だった。
唯一のオアシス、そして都会文明の接点は、田中書店の人気のない雑誌コーナーだけだった。

その書棚には「ロッキング・オン」や「ミュージック・マガジン」などの偏屈音楽雑誌や、
「宝島」「ビックリハウス」「ガロ」などのサブカル系雑誌、なぜか東京版「ぴあ」も置かれていた。
テクノポップの洗礼をまともに受け、そこから派生した音楽・映画・文学そしてグラフィックに
傾倒していった田舎の少年にとって、そこにある全てが憧れの対象だった。
もうこんなところにいられない。世間知らずの17歳のココロは、
当時の地方男子のほとんどがそうであったように、東京にあった。

「ひなたのチカラ」〜宮崎県プロモーション〜

「宮崎の新しいプロモーションのアドバイザーになってもらえないか?」
県のプロモーション担当課から打診があった。
香川県の「うどん県」に端を発し、いろんな自治体が追随するプロモーションを打ち出してきた。
そんな中「宮崎はなんもせんでいいとか?」という声が多方面から出てきている。本県は、
ブランドイメージでも低迷しており、その打開も含めてPR活動を強化したい。とのことだった。

それまで、帰省は数えるほどしかしなかった。宮崎が嫌だったのでなく、仕事が面白かったのだ。
そんなある日、宮崎県庁から県内企業のデザイン指導をお願いしたいと連絡があった。
産物は豊富だが、売る手段が追いついていない。県出身の専門家の見地からパッケージやPOPなど
アドバイスして欲しいとのことだった。経験値を故郷に活かせるのならと軽い気持ちで請け負ったが、
思えばこれが本当のふるさとを知るきっかけとなった。

大人になって訪れた宮崎は豊かだった。自然も、それに育まれた食材も、そしてそこに生きる人々も。
定期的に訪れる中で、高校生では想像もできなかった故郷のポテンシャルを思い知ることとなった。
時間に追われ、膨大な情報に囲まれて生きてきたが、故郷についてはまったく無知だった。

プロジェクトに着手して1年半。正直、これほど生まれ故郷について考えたことはなかった。
答えにたどり着くのにこれだけの時間を要した理由は、
宮崎が、あまりにも多くの魅力に満ち溢れる場所だったからだ。
認知度がいつまでたってもイマイチだったその理由もようやく理解できた。
その魅力を一言で言い表すことが難しすぎる。

昔からの常套句だった「太陽と緑の国」などのリゾートライクなフレーズは 、
沖縄やハワイなどが身近になった今リアリティがなく、「神話のふるさと」も魅惑的だが、
一部のエリアを表現しているだけだった。宮崎の本質的な価値ってなんだろう?
ずっと考えてきた問いの答えは、先人がとっくの昔に言い当てていた。

温暖な気候、緑豊かな大地、おいしい食材、ゆったりとした時間、のんびりとした県民性・・・
宮崎の魅力のその全ては、南九州太平洋側という地の利がもたらしてくれたものだ。
この地の利があるからこそ、めいっぱい太陽の恵みを享受できる。
神話の時代の偉い人が命名した、ここは「日に向かう土地じゃ」。

「うどん」や「温泉」のようなインパクトはないけれども、
ひなたのように、じんわりと広まってくれればそれでいい。
それが宮崎らしいプロモーションだと思います。

ひなたの恵みを、全国のみなさんにおすそ分けしたい。
「日本のひなた宮崎県」。今秋、ようやくじんわりとスタートします。