海外でキャリアを始めて今生きているこの街で、一人のフォトグラファーとしてサバイブする事が私にとって去年まで一番大切な事で一番必要な事でした。そしてこの街で外国人さんに囲まれながら、へたくそな英語と自分の写真で幸か不幸か今までなんとか生き残り、そして今からも負けない様に戦うと言う気持ちでいます。だからか正直、日本をなるべく振り向かず前に前に突き進んでたような気がします。それが去年の3/11以降、自分の中で心境の変化が起こりました。きっと多くの人の中でそういった心境の変化はあったと思います。

震災当日、何故か私は東京に滞在中でした。坂田編集長とこのコラムの打ち合わせ中に地震が起こり、その後、身内の不幸も重なり2週間程日本にとどまりました。その後NYに戻りいつもの自分の生活、仕事に戻りました。しかし、FacebookやTwitterで見る友人知人、そして見知らぬ人の被災地での活動やボランティアを見ながら海外にいて自分の出来る範囲の寄付くらいしか出来ない自分がもどかしくて悔しくて...。なにかお役に立ちたい。と思い続けて情けない事に全く何も出来てないで今に至ります。

3/11以降、海外のクライアントと話すときいつも「次は日本で撮影しようよ。」と無意識に言う様になりました。ちょっとしつこいくらいに。しかし、今の現状で日本から出て来るのは震災以降の不安なニュースばかりで正直難しいのが現状です。

しかし、私は思ったのですが"自分の出来る支援活動"って日本に海外のクライアントを持って行って、外貨を日本に落としてもらえる様に海外に働きかけ続ける事なのではないか? と感じました。そして、震災関連の悲しいニュースや厳しい現状のニュースではなくて、日常の美しい日本の風景や毎日を海外のメディアや雑誌、写真に載せてそれをたくさんの海外の人に見せる事じゃないかな? と思いました。

「じゃあそういった事を目標にする制作会社を作っちゃえ」と思い、友人のプロデューサーと作っちゃいました。正直言って私はめんどくさい事はやりたくないし、フォトグラファーが写真以外の事に顔を突っ込むのは否定的で興味も無かった。そして全ての事に自分になにかの理由を見いださないと何もやりたくないダメ人間です。しかし、運良く私には個人的なコネクションが米国、欧州、アジアにある。それらと連携し、欧州で米国案件、米国でアジア案件、アジアで欧州案件、日本案件を世界中で。そして何より日本で世界中の案件を発生出来る様に働きかける会社を作ろうと思い至りました。

はっきりって現状の日本の状況や印象、円高を見ていると難しいでしょう。でもそこに自分の理由を見いだしてしまった。今はクールジャパン等もあり、日本のクリエイションが世界に打って出よう。という機運があります。しかし海外に住んでいたり海外に縁のあるリアルな情報をもつ日本人に限って、これらの運動を斜めに見ているような気がします。私自身もそうでした。しかし、それではいけない。海外に住む日本人一人一人が一番身近な日本の営業マンになるべきでは? と今は考えを変えました。

前回コラムにも書いたのですが、今まではアジア→欧米への一方通行の時代でリターンがなかった。そのリターンを引っ張りだしたい。マーケットを繋げたい。そんな気持ちでいます。

そして私の海外での経験や知識を日本から海外に挑戦したい、海外で撮影したいというフォトグラファーやクライアントの役に立てれば、とも。欧米のフォトグラファーは個人でレップと契約しながらも、個人でプロダクションを持つのは珍しくありません。そのプロダクション機能をシェアしてしまおうと思っています。

今日で阪神淡路大震災から17年。当時大阪で大きな揺れを体感し、目と鼻の先の神戸の惨状を見、子供だった自分は何をしたらいいのか? 何ができるのか? 何も分からなかった。11年前のアメリカ同時多発テロは渡米したてで言葉も背景も分からずただただ不安に感じていただけだった。しかし、去年の東日本大震災、エエおっさんになった私は何が自分に出来る可能性があるのか? 海外にいる自分が日本に対して出来る事は? と考えた答えが日本に海外クライアント連れて行く様に働きかける。と言うのが自分の中の答えでした。

震災を理由にはしたくはないし動機にはしたくない。だけど興味もなかったし全くやろうと思ってなかったこの会社を立ち上げるにあたって、大きな理由と動機になってしまいました。震災直後ボランティアや支援は出来なかったけど、これから海外のお仕事を日本に仕事を落とすと言う事、欧米アジアのマーケットを繋げる事を長期的目標に努力する会社にしようと思っています。

名前はニュープロダクション。 ν productionです。

http://new-production.com

ニューガンダムのνです。ニューガンダムが好きだからこの名前にしました。